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スキーが日本に伝わるまで

日本におけるスキーの伝来は明治時代後期で、1911年に新潟県中頸城郡高田町において、オーストリア陸軍少佐のテオドール・エードラー・フォン・レルヒがスキー技術を伝授したことが、日本に於けるスキー普及の第一歩とされています。レルヒさんは、日本陸軍の中将である長岡外史が率いる陸軍第十三師団の御用商人でもあり、高田町を本拠にする実業家である五十嵐彌五八の経営する旅館「高陽館」に寄宿し、高田歩兵第五十八連隊に着任しました。

また、五十嵐は自身が経営する「報国商会」を介して、スキーの製造・宣伝活動・スキー音頭や高田小唄を作り高田芸鼓連にスキー踊りを教えるなど、「スキー」の全国認知に積極的に活動しました。特に信越・関東・東北・北海道のスキーの普及に大きく貢献したといわれています。

テオドール・エードラー・フォン・レルヒ

テオドール・エードラー・フォン・レルヒは、日本で初めて本格的なスキー指導をおこないました、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人です。日本では一般的には「レルヒ少佐」の名で知られています。日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、1910年11月に交換将校として来日しました。スキー教師として来日したわけではありませんが、日本陸軍では八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はレルヒのスキー技術に注目し、その技術向上を目的として新潟県高田にある高田歩兵第58連隊の営庭や、高田の金谷山などで指導をおこないました。レルヒが伝えたスキーは杖を1本だけ使うスキー術で、現在主流の杖を2本使うスキー術のひとつ、「アールベルクスキー術」は1930年のハンネス・シュナイダーの来日まで待たなければならなりませんでした。1912年2月には北海道の旭川第七師団へのスキー指導のため旭川市を訪れています。現在、新潟県上越市高田の金谷山には日本スキー発祥記念館が設置され、レルヒの業績を伝えています。また毎年2月上旬に「レルヒ祭」をはじめとした各種記念イベントが開かれています。2010年はレルヒが日本にスキーを持ち込んで100年になります。

スキーの歴史

スカンジナビア半島では、紀元前2500年ごろの壁画に狩りをする人がスキーを履いた姿が描かれているのが確認されています。また、10世紀から11世紀にかけて、バイキングがスキーを軍用に用いたという記録が残っているようです。

1825年にテレマルク地方に生まれたソンドレ・ノルハイムによって「歩く、飛ぶ、滑る」といった現代まで残るスキー技術がスポーツとして確立され、1860年代には、スキー板とスキー靴を固定するビンディングが考案されました。これが近代ノルディックスキーの始まりです。

1879年には、ノルウェーのオスロにて、初の大規模なスキー大会が開催されました。1907年、ハンネス・シュナイダーによって、オーストリアのサンクト・アントンなどにスキー学校が設立されます。シュナイダーによって、アルプスの急峻な山々の滑降に対応したシュテムなどの技術が体系化されたそうです。これは「リリエンフェルター・シーラウフ・テヒニック」と呼ばれ、アルペンスキーの根源となるものです。また、踵を固定して滑降時の安定を図る、リリエンフェルト・ビンディングも考案されました。

1924年、フランスのシャモニーにて国際スキー連盟(FIS)が結成され、初の冬季オリンピック大会「シャモニーオリンピック」が開催されました。この大会ではクロスカントリースキー、ノルディック複合、スキージャンプがスキー競技として採用されています。アルペン競技は第4回のガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックから採用されています。1990年代後半から、カービングスキーやショートスキーなど、ターンのしやすい新しいスキー板が普及し始めています。

スカンディナヴィア半島

スカンディナヴィア半島は、南側のバルト海を内海とする、ヨーロッパ北方の巨大な半島で、半島はノルウェー、スウェーデンの2国からなります。中央にスカンディナヴィア山脈が走り、北極海側は氷河が作り出したフィヨルドと呼ばれる入り江が続きます。バルト海に面した側は、湖沼の多い平坦な地形。両側でその地形が極端に異なる二面性があり、世界的に見ても、多彩な自然環境を持つ半島であると言えます。地政学的には、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシアの4カ国に分けられます。古くはヴァイキングの根拠地だったそうです。

テレマルク

テレマルクはノルウェーの県。ヴェストフォル県、ブスケルー県、ホルダラン県、ローガラン県、アウスト・アグデル県と県境を接しています。県庁所在地はシーエンで、県番号は8番。ノルウェーの南西に位置し、ハダンケル地域からスカゲラク海峡まで続きます。海岸線はランゲサンスフィヨルドからジェーネストアンゲン、 さらにアウストアグデルまで続いています。地形は起伏に富み、多くの丘や谷があります。

ハンネス・シュナイダー

ハンネス・シュナイダー、本名ヨハネス・シュナイダーは、20世紀前半に活躍したオーストリアのスキー講師です。「アルペンスキーの父」として知られています。ハンネス・シュナイダーはオーストリアのシュトゥーベン・アム・アールベルクに生まれました。父はチーズ職人。1905年の冬に初めてスキーを本格的に学び始めます。早くも1907年にはサンクト・アントン及びサンクト・クリストフにてスキーインストラクターとなります。1920年の冬にはオーストリア初のスキー学校を立ち上げ、そこで後にアールベルクテクニックと呼ばれるようになるスキー技術の指導を行いました。第一次世界大戦中はオーストリア軍山岳兵部隊のスキー教官を勤め、戦後は再びサンクト・アントンに戻ってきます。1921年、ドイツのドキュメンタリー映画の巨匠であるアーノルド・ファンク博士とともに、アールベルクテクニックを集大成した映画『スキーの驚異』を製作。この映画によって彼のスキー技術は世界に広まりました。後に、同名の書籍をアーノルド・ファンク博士と共著で出版しています。ナチス・ドイツによるオーストリア併合の後、シュナイダーはユダヤ人の友人を弁護し、ナチ運動に協力するスキー教師を解雇するなど、ナチ体制への協力を拒否しました。そのため政治的な理由によって、1938年3月に逮捕されランデック刑務所へ収監されてしまいます。各国から加えられた圧力により、彼は同年4月には釈放されるが、スキー教師としての免許をはく奪されました。1939年、家族とともにアメリカへ亡命し、スキー指導の拠点をニューハンプシャー州、ノース・コンウェイに移します。第二次世界大戦中はアメリカ陸軍山岳兵部隊のスキー指導を行いました。彼の息子ヘルベルトも同部隊に入隊しています。戦後はアールベルクへ何回か里帰りしましたが、65歳で死去するまでニューハンプシャー州のクランモア・マウンテンリゾートの発展に尽くし続けたのです。

スキーのはじまり

スキーは元々、狩人が獲物を追って雪の山野を移動する手段でしたが、19世紀中頃からノルウェー南部のテレマルク地方を中心にスポーツや、登山者の山麓での移動手段として進化を遂げました。やがてスキー自体を楽しむ人々が増えるにつれスキーの練習に適した斜面のある山麓にゲレンデが出来、やがてもとの目的から独立したスポーツ・レジャーの場としてスキー場と呼ばれるようになりました。日本では積雪期にも宿屋が営業する温泉地に愛好者が集まりやがてスキー場として発展しました。山形県の五色温泉や長野県の野沢温泉がその奔りです。

ヨーロッパのアルプス地方で普及したアルペンスキーを楽しむ人口が多いのですが、クロスカントリースキーやテレマークスキーのような、アルペンスキーより先にスカンジナビア半島で発展したノルディックスキーも現在まで根強い人気があります。1本の専用の板に正面を向いた状態で両足を揃えて固定するモノスキーというものもあります。
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